大学生に聞く「障がい者と世間」について
「障がい者と社会、障がい者と世間」このテーマについてあなたの想いや考えを聞かせてください。この投げ掛けに、ある大学生が答えてくれました。
私は、今の世の中は障がい者に対して冷たすぎる、そしてそういった姿勢を改めるべきだと思います。
その理由は、
・社会が障がいという概念を生み出しているだけで、障がいのたる本人には全く非がないから
・自分や近しい人が障がい者や介護者になる可能性があるから
・障がい者に厳しい社会は障がいない人にとっても厳しいから
が、あげられます。
一つ目、そもそも障がいとは「社会に順応することに障がいがある」ということだと思います。例えば、時間やルールに厳しく、空気を読んで和を乱さないことが良いとされる日本では、それに従うことが困難である場合、障がいとみなされることがあるでしょう。しかし、国によっては国民性自体が時間にルーズだったり、個性を尊重する場合ではどうでしょうか。
私は高校生の頃、ヨーロッパのとある国に語学留学をしました。その国は国土のほとんどが緑豊かな田舎で、国民性も日本と比べのんびりしていました。私が通っていた現地生徒も通う高校には、教室を移動する時間というものがありませんでした。もちろん2コマに1度休み時間はありましたが、授業と授業の間の教室を移動するための余白時間がなく、授業時間内に移動するというシステムでした。そのため、毎授業の最初の10分ほどは生徒が集まるための時間となり、本来40分授業のはずが実際に授業を行うのは30分ほどでした。このようなシステムでは「時間にルーズな子」は日本より生まれにくいでしょう。また、私と同じ授業をとっていたある現地生徒は、「今年はたくさん休んだし勉強もついていけなかったから留年しようと思っている。」というようなことをあっけらかんと言っていて、これも日本ではあまり聞かない話ではないかと驚きました。日本では留年は絶対にしない方が良いと考えられるし、そもそも自分で留年するかどうかを決めることもまずないでしょう。このように、もう1年同じ学年で学びなおすことのハードルが低ければ、知的な遅れがある生徒も自分のペースで学びやすいし、それが社会で当然に認められていれば、留年しても“少し時間がかかる子”程度になるのではないでしょうか。社会の規範にそぐわない=障がい者というのは少し酷ではないかと思います。
二つ目は、誰もが事故にあったり病気になったりして障がいを抱える可能性はあります。もし自分や家族が障がい者やその介護者になったとき、社会の多くの人が障がい者に対して冷たかった場合、生きにくくなるのは自分自身であるということに気が付かなければなりません。もし自分が障がい者になったときに必要な支援を受けられて、希望をもって生きることができる社会にするには今いる障がい者の方々を温かく受け入れ、支援を充実させていく必要があるのではないでしょうか。
そして三つ目。これは例え自分が障がい者にならなくても、障がい者に冷たい社会は多くの人にとっても厳しいものになるのではないかと思います。弱者を排除していくを安易に放置しておくと、その弱者の概念が徐々に広がっていくことを止められなくなります。障がい者とまでは言わないような社会的弱者(貧困、非正規雇用など)を排除していくことにつながるのではないでしょうか。
多様性を尊重しない社会は、社会で正しいとされる生き方や人物像から外れる人を排除しかねないのではないでしょうか。「何があっても自己責任、公助ではなく自助で」。このような社会は、強者しか生き残ることができず、弱者は淘汰され、格差の非常に大きな社会となってしまいます。強者は常に下流への転落を恐れ、弱者はどれだけ頑張っても社会的な成功を納められず、多くの人が貧困にあえぐことになるのではないかと想像します。
このように、障がい者に対して冷たい社会は、非のない当事者を追い込むうえ、これから障がい者になるかもしれない自分自身、そして障がいのない人にまでその生きづらさを与えるのではないでしょうか。社会・世間はもっと当事者意識を持ち、自分たちのためにも、どんな人でも住みやすい社会にしていく必要があると考えます。