それは突然に、、、

今回は、60年間障がい者に向き合い続けた方から貴重な話をお聞きしたので、数回に分けて発信させていただきます。昔と現代の考え方の変化や状況の変化、なかなか聞くことのできないお話でした。

「それは突然に。
60年前、15歳の春。区別が差別になった日」

 話は65年前にまで遡ります。
 小学5年生の始業式の日、何の前ぶれもなく特別クラスが出現したのです。4・5・6年生の複々式で10名足らずの構成です。私には3月まで同じクラスで遊んでいた仲良しの房子ちゃんが、なぜそのクラスに移ったのかすぐには理解できませんでしたが、先生にも親にも、面と向かって訪ねることはありませんでした。
 そのうち、病弱な子どもたち、お勉強についていけない子どもたちが集められているのだなと分かってきました。教室は保健室の隣で、下校時間も違っていて、それからの二年間はこれまでのように寄り道して房子ちゃんの家で漫画を見せてもらうこともなくなりました。
 
ところが、私たちが進んだ中学校には、昭和35年当時、特別クラスはまだありませんでした。
その中学校で私は、小学校時代一度も同じクラスになった事のない美鈴ちゃんと出会います。
最初の関わりはセーラー服のリボンを結び直してあげたことでした。それからはなぜか私を気に入ってくれて、休み時間になると側に来て頬杖をついてしゃがみ込み、私をずっと見つめ、トイレに立つと必ずついてきました。言葉遣いが幼くて、テストやテレビ・流行歌の話には加われず、それでも私たちの会話をただニコニコと聞いていました。 一学年270名、毎年のクラス替えにも関わらず、美鈴ちゃんとは三年間同じクラスでした。
 3年生になると、戦後ベビーブームの走りであった私たちは、過激な高校受験に追い立てられ、もう美鈴ちゃんどころではなく、この頃の彼女の記憶はまったくありません。
 一年後、私は猛勉強のかいもあって、憧れの進学校に合格。新しい友達もできて初めての電車通学を楽しむ日々でした。
 二か月たったある日、コトデン瓦町駅のホームの端で、私に向かって手を振る女の子が目に飛び込んできました。三年間共に過ごしたあの美鈴ちゃんです。
 当然、私は彼女のそばにかけ寄り、「元気やった?」と笑顔で対面…となるはずでした。ところが、その時の私はとっさに視線をそらし、気付いてないふりをして一緒にいた友人たちとの会話を続けてしまったのです。
 60年間経った今も、あのホーム、茶色の電車、美鈴ちゃんの進学した養護学校の制服、紺色のセーラー服に白いスカーフは、苦いというにはあまりにも辛い思い出として蘇ります。

 時は過ぎ、還暦を迎えた年に、中学校の同窓会の案内状が届きました。当時私は、知的障がい者施設の施設長という職にあり、日本中が制度改革で大混乱のさなかでした。出席は叶わず、幹事さんへの返信にこう付け加えました。
〈美鈴ちゃんの消息が知りたいのです、直接会ってどうしても一言謝りたいことがあるのです〉と。
 後日、当日のスナップ写真等送られてきましたが、最後に、
〈皆さんに聞きましたが、どなたからも情報は得られませんでした〉と、したためられていました。

 小中学校と同じ制服で過ごした美鈴ちゃんと私。高校生になって、進路が両極端に分かれ、制服で区別された私たち。だからといって二人の中身は何一つ変わっていないはずでした。
 しかし、制服による区別は単なる区別では無かった。あの日、私の中で、はっきりと彼女への差別感が芽生えたのですから…。

次回へ続く

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